「明日死ぬかもしれない」と冗談を言うこと


_如果本能是一種懲罰。 - 無料写真検索fotoq
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猫より出でし者、どうも @bosunekoです。

ふと「死」を意識した。
こうやって人は死んでいくのかと。
思っていたよりあっという間で、考えていたよりあっさり人は死ぬのかもしれない。

私は冗談で「明日、私死ぬかもしれないから」と友達とか同僚に言うことがある。
そんなときは「そういうこというなよ」とか「大丈夫、死なないから」とだいたい返される。
確かに私だって誰かにそう言われれば「そんなことないよ」と返すだろう。

だが、冗談で言っているけれど少し本気成分が混じっているんだよ。
それは「死」を意識しているから。
遠い未来かもしれないし、明日かもしれない。否、今日かもしれない。眠ったら最後かもしれない。
考えているから死期が近づくのかもしれない。そうじゃないかもしれない。
でも確実に訪れることは誰だって知っている。が、忘れている。

私は度々冗談を言いながら「死ぬ」事について思い出している。

冗談とちょっとぴり本気


世界には二通りの人間しか無い。
それは「死ぬ」ことが分かっている人と、そうじゃない人。
だが「死」を意識したからって長生き出来るわけじゃないし、考えていなくても長生きする人はいる。
これは世界の不思議だ。

物語的には「死ぬ」ことに対して考えながら、時間を有意義に過ごそうと考えている人の方が長生きする物だ。
なぜなら物語は人々の願いがこめられているからだと私は思う。
悲観的な物語でも多少の救済が無いと「悲しい気持ち」で終わってしまうし、悲しいことがあったら嬉しいこともあってくれないと物語に張りが出ない。

「死ぬ」事に対して紳士的な態度をとっていれば、長生き出来る。っという願い。
健康的に生きていれば、長生き出来る。っという願い。
人生充実に生きていれば、長生き出来る。っという願い。
その願いがドラマや映画にはこめられる。


だがしかし、私達が生きているのは現実だ。
慈悲無きリアルだ。
後1秒後に死ぬかもしれないし、残り50年生きれるかもしれない。
全てが不確定であり、全てが空想だ。

人によっては考えたくも無い現実だと思う。
考えていなければ、それは無いことになるのだから。
頭の中を幸せホルモンだけで満たしていれば、それがその人にとっての世界になるのだから。
頭がお花畑でも楽しければそれでいい。

でも私はそんな構造にはなっていない。
毎日ニュースから流される「死」。世界から発せられる人の「死」。
否応なしに語られる人々の「死」。
切っても切れない人々の「死」。
見えないところで必ず影響を受けている。
「死」が蔓延して「死ぬ」ことから我が身を遠ざけている。
その現実を直視することから逃げている。

死にたくはない。誰だってそうだ。
だからと言って「死ぬ」ことについて考えないのは「逃げ」だと私は考えている。
だれだって死ぬのだ。
だれだって死ぬのだ。
だれだって終わりがあるのだ。

それを言うために「明日死ぬかもしれない」と冗談交じりに私は言う。
少しだけ本気成分を混ぜて。

真剣に考えたからって長生き出来る訳じゃ無いし、考えていなくても生きていける。
それでも「死ぬ」ことについて忘れてしまったら、気がついたときにはだいたい手遅れだ。
余命○日。
交通事故。
不慮の事故。
寿命。
末期。

そうならないためにも、自分の生きることを全うしたいなって少し私は思っている。
本気成分を混ぜながら、日々行きながら。
少しだけ「死ぬ」ことを思いながら。


まとめ


今日は体調が悪いから、仕事を早めに切り上げて家路についた。
こんな時間から寝るのは久々だったらいろいろな事を考えた。
そして思いたって書いたのが今日の記事だ。
内容は無いです。だが、そんな事も書いてみたかっただけだ。
明日は体調が良くなっていますように。


では、またー!

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